「雑草礼賛」 キノコ狩りについて

手軽なレジャー、スリル付き

 この時間なら先を越されることもないだろう、とほとんど夜の延長を寝ないで車をとばして来た深い山の中。時計はまだ朝の4時、下草は濡れ、まだ夜も明け切らぬ。去年から目をつけておいた細い林道をつたってきたあなたは目を疑う。

 「この時間で......。」 もうカブ(バイク)が停まってるのである。しかも隣の県ナンバー。

 かようにシーズンのキノコ狩り競争は熾烈だ。残業に鞭打って勢いだけで来ても上には上が居る。今から山に入ろうか、という向こうから、地下足袋と長い棒の先につけた鎌を肩に、獲物は重く、足どり軽く歩いてくる。全く気のない素振りで歩いてくるこの人は、表情を崩さず、あなたをチラ見しながら収穫物は隠さない。なぜなら透明なビニール袋に入っているキノコを見せつけるためだ。そして同じ獲物を狙う者には冷たい。話しかけても無視されるか、小声で挨拶するだけだ。これが競争相手にならない若い女性だったりすると態度は豹変し、聞いてもいないことを話し出し、機嫌が良いとお裾分けまである。

 「やっぱりここは出るんだ。」と自分のカンを称賛しても、今日の仕事はより難儀になっているはずだ。林道から近いところ入りやすいところは、先客に採られ尽くしているからだ。

 とりあえず歩きだそう。山を下りながら探してはいけない。昔から言うように、登りながらが鉄則だ。

キノコ狩り

 20年近く前、ブナ帯で篭いっぱいにキノコを採取して、どれが食べられるのか同定してもらったことがある。結果全て食えなかった。鮮やかに白く美しいキノコは「ドクツルタケ」という別名「地獄の天使」だった。「ドクササコ」というキノコの存在も知った。身体の末端部分の激痛がひと月以上続くという。

 それ以来、ホントに知っているメジャーなキノコしか手をつけない。自分で見つけるキノコは、たとえ虫に喰われボロボロに成りかけたナラタケでも小踊りする。つまり野生のマイタケの価値があるということだ。採ってきても不安なモノは近くの専門家に尋ねるようにした。

 結局、キノコ狩りは、命を落とすかのギリギリのスリルに近づかず、キノコ狩りをする「環境」を楽しむ健全?なものになった。帰途につく途中で良い店をみつければいいのだ。

 キノコ狩りの環境を目指せば、自ずと良い林のなかに入っていく。ブナやミズナラの大木のあいだを歩く喜びは伝えにくい。何故伝えにくいのか。キノコの匂い、つまりカビの匂い、菌臭が伝えきれないからだ。良い林は土壌も麗しい。ちょっと手をいれれば、そこに網の目状に這った菌糸を見ることができる。その土壌の匂いは、カビの臭いではない。精神抑制作用があるのではないかとさえ感じる、落ち着いた森の匂いだ。しかしいつまでもブナの根元に顔を突っ込み深呼吸しているのは怪しい。誰も居ない森でも、鼻先で匂いを楽しむのは、何か後ろめたさがある。顔をあげよう。ブナの実があるかもしれない。深山幽谷にしかいないようなキノコムシにも出会える。八溝山で夜の採集をしたときは、A4のコピー用紙が木々のあいだを飛んでいたのでドキッとしたが、すぐにムササビだとわかった。リスやヤマネ、滅多に人を騙すことがなくなったキツネにも出会えた。森は怖い。聴覚も自ずと敏感になり、キツツキのドラミングも聞こえてくる。

 知らないキノコを採集したり、心がでかいつもりでお裾分けして、近所まで下痢にするのは慎もう。

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