うにサンダルで出かけて「その辺のモノをもらおうか」とは行
常々思っていたのだが、カーポートとは曖昧なものだ。カーポートを使用している人に「何故カーポートが必要なんですか」、と尋ねたところ、「だって新築したらみんなこれつけてるから」という答えであったという。1台も車を所有していないにも関わらず、駐車スペースとカーポートを所望する方さえ最近チラホラ出てきたらしい。果たして、やっと自動車が手に入り憧れのポートインである。興奮した答えが返ってくるかと思い、その後の感想を聞いてみると「こんなものだろ」という力の抜けた答えが圧倒的に多かった。
世の中には、「片づけ魔」または「片づけ癖」のタイプの人間がいることは、前々から噂になっていた。その存在を公のものとしたのは、モノが溢れる物質文明になった最近のことである。
しかしモノがない時代、例えば安土桃山時代の農民に「片づけ癖」は存在したのだろうか。生態社会史の研究者として最も著名な和気内教授の論文から、「さまざまな癖を持つことはピテカントロプスにまで遡る」ことを発表し、多くの悪癖をもつ国民から密かな喝采を浴びた。一方その頃、和気内教授たちと対立していた学派もあり、競争的資金の獲得でのしこりもあって、その論ずるところの綻びをついてきたのが、「そもそも戦国時代の農民が片付けるものを所持していたかどうか」という問題であった。語り草になっている、あるシンポジウムでの和気内教授の切り返しはここで再び記す必要もないがこうである。「片づけ癖のタイプに片付けるものを保持するかどうかは問題ではない、むしろ片付ける為のスペースがあることが重要だ。」天動説が地動説に変わった一瞬の感動がシンポジウム会場を包んだ。
安土桃山時代の農民のなかの「片づけ癖」の話は近年になって修復した仏像の体内から多くの古文書とともにあった。その農民は暇さえあれば、抜いた大根をしまっておくところ、もいだ柿の実をしまうところ、抜いた鼻毛をならべるところ、来年使う種籾をしまっておくところと、スペースを自分でつくり片付けていた。そのどうしようもない「片づけ癖」は単なる癖で終わらず、村の資産の管理までこの癖でやらせてしまおうという、名誉ある仕事にまでなっていった。片付ける場所を決定することが、片付けるモチベーションをあげ、片付ける目標をいつまでも見失わないことこそ何より大切であることが、この時代において確立されたのである。
しかし数年後、この農民の癖は資産を管理するに飽きたらず、足下の石ころや土、水まで片づけてしまっておくことまで理想に掲げた。寝る間を惜しんで片付けようとしたが、上手くできるはずもなく、この農民がたどり着いた境地は「ここに片付けた」と周囲の全てのモノを記録することだったのである。400年前にコンセプチュアルアートにまで及んだ彼の生涯に悔いはなかったという。辞世の句は「はてしなや あれもこれ我が 身かたづけ」
それから約400年。この「片づけ癖」の血は絶えることなく現代の一部の人々に受け継がれたのである。つまりカーポートとは、車を片付ける場所として機能しているのだ。そのシンプルな機能の為に、車に雨がかからないようにしよう、汚れがつかないようにしようという、一見プライオリティが高いように惑わされる機能は後ろに追いやられたのである。これは片づけ癖タイプの人々ばかりでなく、片づけられない病気の人たちにまで優しく手を差し伸べるスペースなのである。不幸な事にその第一の機能は、使う側にとっては忘れられているのか、より高い要求をするのが一般的なお客様なので、その機能以上に、車が汚れないことを求めているらしいこともアンケート結果から読み取れる。
しかし、片付ける定位置があることはなんて幸せなのだろう。
流行りがあるもので、カーポートはアルミ製でなくてはいけないのように全国一律アルミとポリカーボネイトだが、ここに来て木製を希望する人も多くなってきた。より存在感のある片付け場所のためにも、是非弊社に声をかけてほしい。その土地、その建物に合ったカーポートをオリジナルで提案しよう。
...建築申請が必要であるとか、建ぺい率にかかってくるとか、固定資産にはいるのか、などの疑問はここには書かない。役所で聞いて欲しい。驚くべき答えが待っている。尋ねた事により、何らかの被害と思えるようなことが蒙ってきたとしても当方は一切関知しない。
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